何の変哲もない、普通の美容師の話。
私は川越市で「髪匠りのん」という美容室を営んでいます。
40代からの大人世代専門店です。
美容師になって27年ほど。自分で店を始めてからは7年ほどになります。
こう書くと、昔から美容師に憧れていて、いつか自分の店を持つのが夢だったように思われるかもしれません。
でも、まったく違います。
美容師になった理由は、髪型やピアスが自由そうだったから。
独立だって、もともとはするつもりがありませんでした。
経営もずっと自転車操業です(笑)。
そんな私の、これまでのお話です。
厳しい昭和の親父と、ごちゃごちゃした家庭環境
私の家庭環境は、妻から言わせると複雑らしいです。
でも、私にとってはそれが普通だったので、自分を不幸だと思ったことはありません。
父と母、姉、私、妹。
もともとは5人家族でしたが、両親は私が小さい頃に別れています。
物心がついた頃には、父と姉と私で暮らしていました。
妹は母のもとで育ち、母にはその後、私の弟も生まれています。
母と一緒に暮らした記憶はほとんどありません。
母親がいなくて寂しかったかと聞かれても、そういう感覚はあまりないんです。ただ、母親がいないことで不便だなと思うことはありました。
今でも「お母さん」という言葉には、少し馴染みのなさがあります。
母はなかなか破天荒な人だったようです。
父には勝手に離婚届を出したらしいですし、弟の父親とは結婚していませんでした。
一方、父は私より40歳年上。
厳しい昭和の親父でした。
夜9時には寝なければいけない。くだらないテレビ番組は見せてもらえない。悪いことをすれば手が出ることもありました。
歌番組を見ていても、
「声が出てねぇ」
「こんなの歌じゃねぇ」
と、何かと否定的。
私自身、物事をネガティブに考えがちなところがあるのは、親父の影響じゃないかと思ったこともあります(笑)。
でも、父なりに家族のことは考えていたようです。
家族そろって食事をすることや、食事中に会話することを意識していたらしく、食卓では父が話題を振っていました。
父は勉強が好きな人でもありました。
高校を卒業することすら今ほど当たり前ではなかった世代なのに、働いてから大学に入り直したほどです。
そんな父でしたが、私に勉強を強制することはありませんでした。
だからといって私が勉強したかというと、まったくしませんでしたけどね。
宿題も嫌いでした。
今思えば、父は父なりに一生懸命、家庭をつくっていたんでしょう。
少なくとも私は、不幸だと思ったことは一度もありません。
姉と妹と、母のこと
私は昔から姉が大好きでした。
自分でも「超シスコンだった」と思います(笑)。
母親が身近にいなかったぶん、姉に母親のようなものを求めていたのかもしれません。
その姉が高校生の頃、大きな病気をしました。
命も危ない時期がありました。
あのときは、本気で「自分だったらよかったのに」と思いました。
でも、姉は生き延びました。
今では5人の子供の母親です。
不思議なことに、私の長女と姉は誕生日が同じ。私と姉の長男も誕生日が同じなんです。
母がどこかで見ているのかな、なんて思ったこともあります。
妹は一時期、父と暮らしたいと言って、私たちの家に来たことがありました。
でも、父の厳しさには馴染めなかったようで、1年ほどで母のもとへ戻っていきました。
その後、しばらく連絡が途絶えました。
私が結婚して本籍を実家に移したとき、父は戸籍を見て妹が結婚していたことを知り、手紙を書いたそうです。
妹はすでに子供を一人産んで離婚していましたが、その手紙をきっかけに再び連絡を取るようになりました。
母とは高校3年生の頃に会ったのが最後です。
その後、連絡が取れなくなり、亡くなったことを後から知りました。
母は私の子供たちを見ることはありませんでした。
だからといって、母を恨んでいるわけではありません。
母がいなければ私は存在しませんし、自分が親になった今だからこそ、思うこともあります。
父と母は、本当に正反対の性格だったようです。
よく結婚したなと思います(笑)。
目立ちたいくせに、人見知り
子供の頃の私は、目立ちたがり屋でした。
中心にいたい。人を笑わせたい。かっこつけたい。
いろいろごちゃごちゃしています(笑)。
小学生の頃は夏に野球、冬にサッカーをやっていました。
中学校ではソフトテニス部。
ダブルスの前衛で、市の新人戦では優勝したこともあります。県大会では初戦敗退でしたけどね。
キャプテンにもなりましたが、ダブルスの相手とうまくいかなくなって、途中から部活に行かなくなりました。
当時は相手のやる気がなくなったと思っていましたが、今になれば、自分にも原因があったのかもしれません。
勉強の成績は学年でも下の方。
たばこも隠れて吸っていました。
進路を決めるときも、特にやりたいことはありませんでした。
先生に「ここなら入れる」と言われた工業高校へ進学。
父はなぜか乗り気でしたが、私は学校についてろくに調べもしませんでした。
高校に入って気づいたことがあります。
自分は意外と人見知りなんだな、と。
同じ中学校から来た人がいなかったこともあって、なかなか周りと打ち解けられませんでした。
私は、人の機嫌や顔色を気にしてしまうところがあります。
仲良くなりたいのに、相手にどう思われるかが怖くて、自分から話しかけるのに勇気がいる。
誰とでも自然に話せる人には、今でも憧れます。
美容師なのに人見知りなのか、と言われることもありますが、人見知りの美容師なんて結構いると思いますよ。
接客は好きですし、仕事中に無理して明るく振る舞っているつもりもありません。
ただ、仕事以外の場所で自分から輪に入るのは、今でも苦手です。
会社員時代、会合の歓談タイムには、ずぅっっっと喫煙所にいました(笑)。
美容師になった理由は、髪型とピアス
高校時代はアルバイトばかり。
高校1年の夏休みには、原付バイクが欲しくて週5日、1日8時間働いていました。
最初は親父に反対されたんですけどね。
でも、保険のことや自分が負う責任について調べて説明したら、認めてくれたんです。
家ではゲーム機なんて買ってもらえなかったので、プレイステーションもテレビもオーディオも、自分で働いて買いました。
髪型は当時流行っていたビジュアル系の影響を受けていました。
今となっては黒歴史です(笑)。
高校2年の終わり頃、先生から進路を考えるように言われました。
その頃の私が望んでいたのは、髪型やピアスを自由にできる仕事。
ファッション雑誌の街角スナップを見ていたら、「美容師見習い」と書かれた人がいたんです。
「あ、美容師なら自由な格好ができるんだ」
そんな理由で、美容師になろうと思いました。
先生に伝えたら、
「そうか、床屋さんになりたいのか」
と言われました(笑)。
父は、どこか嬉しそうでした。
実は父方の祖母が、戦前から美容師をしていたんです。
祖母が使っていたハサミは、今でも私のお店に置いてあります。
ただ、当時の私は、祖母の仕事を継ぎたいなんて立派なことを考えていたわけではありません。
本当に、髪型とピアスです。
女性のお客様の後ろに立つだけで震えていた
1999年4月、高校を卒業した私はUNIXという美容室に就職しました。
大きな会社を選んだのは、社会保険や年金などの福利厚生がしっかりしていたから。
それまで床屋にしか行ったことがなかったので、美容室の仕事なんて何も知りませんでした。
配属先は川越のmod’s hair。
ちょうどカリスマ美容師ブームが始まった頃です。
でも、私は「カリスマ美容師」と言われるのが恥ずかしかったんです。
ブームに乗っかって美容師になったと思われるのも、なんだか恥ずかしくて。
実際には、流行する少し前から就職を決めていたんですけどね(笑)。
工業高校から来た私にとって、美容室は知らない世界でした。
女性のお客様の後ろに立つだけで緊張して、震えていたこともあります。
可愛い時代もあったんですよ(笑)。
技術も、最初から器用にできるタイプではありませんでした。
特にシャンプーには苦労しました。
同期の中で、シャンプーテストに合格したのは私が最後です。
シャンプーの練習は、一人ではできません。
先輩にモデルをお願いしても、終電の時間がありますし、何度も洗えば頭皮や首が痛くなってきます。
泣きそうになりながら練習していました。
当時は新人が買い出し当番をしていたのですが、自分の当番ではない日でも、
「お前シャンプーできないんだから、お前が行けよ」
と言われることがありました。
悔しかったですよ。
でも、シャンプーができないのは事実でしたから。
今振り返ると、殴り倒したくなる先輩が何人もいますけどね(笑)。
そのほとんどは、美容師を辞めています。
パーマを巻くのも最初は苦労しました。
専門学校で実技を学んできた人たちより、私の方が時間がかかったと思います。
でも、それがわかっていれば、倍練習すればいいだけです。
自分が不器用なことは、自分が一番わかっていますから。
美容師を辞めたいと思ったことは、何度もある
美容師になってから、辞めたいと思ったことは何度もあります。
人間、定期的にそういう時期が来るものじゃないですか。
父からは、こんなことを言われていました。
「仕事なんて、まず一年やってみないと」
一年経つと、
「次は三年やらないとなぁ」
そして三年経つと、
「十年はやらないとなぁ」
十年も続けると、今度は自分で考えるんです。
「じゃあ、美容師を辞めて、ほかに何ができるんだ?」
十年かけて身につけた技術がある。
結局、自分が一番働くスキルを持っているのは美容師なんですよね。
だから続けてきた部分もあります。
美容師への憧れが強い人の方が、現実を知って早く辞めてしまうこともあるんじゃないかと思います。
美容師の仕事は、華やかに見えて大変です。
練習はきついし、なかなか稼げない。
私は最初からそんなに大きな夢を持っていなかったから、逆によかったのかもしれません。
先輩・後輩だった妻
妻とはUNIXで出会いました。
妻は私の一年後輩です。
ただし、年齢は妻の方が一つ上。
美容学校が2年制になった時期だったので、高卒で入社した私の方が、専門学校を卒業した妻より先に働き始めたんです。
出会って一年ほど経った、私の入社3年目くらいから付き合い始めました。
その後、結婚して二人の娘が生まれました。
妻はその後も美容師を続けていましたが、私が川越店の店長だった頃、会社の評価システムの都合で大宮店に異動することになりました。
通勤が大変になり、妻は美容師を辞めました。
その後は、もともと興味のあった調理の仕事へ。
社員食堂のおばちゃんをやっていました(笑)。
カットを、もう一度勉強し直す
私は一度UNIXを辞め、別の川越の美容室で働いたことがあります。
当時の上司との関係が、なかなか大変だったんです。
子供も生まれ、生活のために夜の仕事を掛け持ちした時期もありました。
でも、この先、美容師として稼いでいくには、もっと技術を身につけなければいけないと思いました。
そこでUNIXに戻りました。
私が最初に習ったカットは、ドライカットが中心でした。
ところが、ウェットカットやベーシックカットの基礎には、自信がありませんでした。
そこで、外部講習にお金をかけて通いました。
カット用のウィッグは一体5,000円以上。
宿題で9体、講習当日に2体使うこともありました。
ウィッグ代だけで5万円以上。そこに講習費もかかります。
決して安い勉強ではありませんでした。
でも、学んでよかったと思っています。
ドライカットにも良さはあります。ただ、私の経験では、感覚に頼る部分が大きく、形の持ちに課題を感じることもありました。
ベーシックカットは、いわば土台づくりです。
土台がしっかりしていれば、形は崩れにくい。
私は、カットは長持ちすることが大切だと思っています。
美容室で仕上げたその日だけ綺麗でも、意味がありません。
お客様が家で乾かしたときに、ある程度まとまること。
そこは今でも大事にしています。
店長になっても、独立するつもりはなかった
その後、川越店でチーフや店長を経験し、上尾店でも7年ほど店長を務めました。
長く勤めた会社です。
私は、もともと独立願望がありませんでした。
会社員でいることに、特に不満があったわけではありません。
でも、会社の経営体制が大きく変わり、内部でいろいろなことが起こりました。
多くの社員が辞めていき、私も自分の今後を考えることになりました。
美容ディーラーに転職するか。
ほかの美容室で働くか。
それとも、自分で店を出すか。
自宅は日高市に建てていました。
上尾まで通い続けることを考えると、距離も気になります。
一方、川越には長年担当してきたお客様がいました。
川越から上尾まで、電車やバスを乗り継いで来てくださる方もいました。
それなら、川越で店を出そう。
そう考えたんです。
夢に向かって独立したというより、いろいろ考えた結果、そうなったという感じです。
父が言った「自分にはできないことだから、すごいなぁ」
独立するとき、父にも話しました。
父は、
「自分にはできないことだから、すごいなぁ」
と言ってくれました。
開業資金も借りました。
「100万くらいしか余裕ないぞ」
と言いながら、すぐに貸してくれたんです。
父との関係は、いつまでも頭が上がらないようなものではありませんでした。
社会人になって、私も世の中を知るようになると、
「親父、何言ってんだ?」
と思うことも増えました。
2008年からは実家を建て替えて同居していましたから、妻の味方になるために父に怒ることもありました。
尊敬していることと、何でも言うことを聞くことは別です。
そんな父が、2019年1月に亡くなりました。
膵臓がんで、全身に転移していました。
本人が体調の悪さを口にしてから、3〜4か月ほどだったと思います。
長い介護が必要になったわけでも、認知症になったわけでもありません。
今振り返れば、父にとっては悪くない最期だったのかもしれないと思っています。
亡くなったのは、市原悦子さんと同じ日でした。
私がお店をオープンしたのは、その2か月後。
父は、完成したお店を見ることができませんでした。
ちなみに、借りたお金は返さなくてよくなりました(笑)。
髪匠りのん、開業
2019年3月、39歳で「髪匠りのん」をオープンしました。
「匠」という字をつけたのは、自分への決意表明です。
匠と名乗る以上、それにふさわしい職人であり続けなければならない。
そして「りのん」は、娘たちの名前にちなんでいます。
ライラックの花を別名「リラ」と呼び、花言葉には「美しさ」や「誇り」があります。
もう一つは、ギリシャ神話に登場する女神「ユーノー」。
この二つが、娘たちの名前の由来にもなっていて、そこから「りのん」という店名が生まれました。
開業した翌月の4月には、働きたいという方が来て、一人スタッフを雇いました。
でも、まだ集客が十分ではありませんでした。
その方も申し訳なく感じたようで、1か月ほどで辞めていきました。
そこからは、ずっと一人営業です。
そして、経営はというと……。
ずーっと自転車操業です(笑)。
開業して間もなく、コロナ禍にもなりました。
店を畳もうと思ったこともあります。
でも、店を辞めるにもお金がかかるんですよ。
原状回復の費用はどうするの?
辞めるお金もないなら、夜逃げ?(笑)
実際に、居抜きで店を買い取ってくれる会社を調べたり、自宅の無料査定をしてもらったりもしました。
ところが、査定してみたら、思っていたより安いこと(笑)。
「これじゃ残った住宅ローン返せないやーん!」
独立するつもりなんてなかったのに独立して、今度は辞めたくても辞められない。
そんな時期もありました。
「もう美容師はやりたくない」と言っていた妻
妻には、ずっと美容師に戻ってほしいと誘っていました。
でも、本人は、
「もう無理。やりたくない」
と言っていました。
無理もないと思います。
UNIX時代は、とにかく掛け持ちが多かった。
女性スタイリストを希望するお客様を途中で入れられたり、待っているお客様の横で別のお客様をカットしたり。
あの働き方は、ストレスがたまります。
でも、独立した今の店なら違う。
一人ひとりのお客様に、しっかり時間を取れる。
掛け持ちでお待たせすることもない。
自分たちのペースで、丁寧に仕事ができる。
私は、丁寧さではほかのサロンに絶対負けないという自負があります。
だから、今の環境ならもう一度美容師をやれるんじゃないかと、ずっと妻を誘っていました。
そんな中、妻が働いていた調理の職場でもいろいろあったようで、それが後押しになりました。
2022年10月、妻が美容師に復帰。
久しぶりに、夫婦で同じ仕事をすることになりました。
男性美容師が一人でやっている店には、抵抗を感じる女性のお客様も一定数いると思います。
妻が加わったことで、そういう方にも来ていただきやすくなったのではないでしょうか。
経営面でも、家族二人で売上をつくれることは大きいです。
それからは、何とかやっていけるようになりました。
まあ、今でも余裕があるわけではありませんけどね。
おじさん、おばさんは、どこの美容室へ行けばいい?
自分が年齢を重ねて、ほかの美容室に髪を切りに行ったとき、ふと思ったことがあります。
美容室の広告を見ると、若いモデルばかり。
流行の髪型、華やかなカラー、若い人向けの雰囲気。
「おじさん、おばさんは、どこの店に行けばいいんだ?」
そう思ったんです。
若いお客様は、若い美容師さんに任せればいいんじゃないか。
同じ世代だからこそわかる感覚もあります。
私自身、若い頃とは髪の状態も変わりました。
白髪が増え、髪が細くなり、癖やまとまり方も変わる。
年齢を重ねれば、髪の悩みは増えていきます。
だったら、そういう大人世代のお客様に向けた店にしよう。
それが、今の「40代からの大人世代専門店」という考え方につながっています。
若い人向けのデザインを追いかけるより、今のお客様の髪や頭皮に何が必要なのか。
一回の施術で完成、というよりも、長い目で綺麗な髪を保っていく。
今は、そんな仕事を目指しています。
まだまだ、理想どおりにできているとは言えませんけどね。
「これでいいだろう」と思っていた自分
独立してから、誰にも何も追われなくなりました。
会社員の頃は、試験があり、評価があり、上司がいて、何かしら求められることがありました。
でも、自分で店を始めると、誰も何も言いません。
気がつけば、仕事がマンネリ化していました。
「これでいいだろう」
どこかで、そう思っていたんです。
40代からの大人世代専門店と掲げているのに、自分自身は何も変わっていない。
この先、自分もどんどんおじさんになっていく。
今までと同じことを続けているだけでは、集客ももっと厳しくなるんじゃないか。
このままだと食いっぱぐれる。
そんな危機感がありました。
そこに、今年のケミカレーションでの学びが重なりました。
面白かったんですよ。
知らないことが、まだまだたくさんある。
それで、もう一度、本気で勉強を始めました。
1mmでも進んでいれば
最初は、見聞きしただけの情報を、自分の言葉でお客様に伝えていいのか不安でした。
本当に理解できているのか。
間違ったことを言ってしまわないか。
怖さもありました。
でも、勉強して、言葉にして、伝える。
そうすることで、自分の理解が深まっていくことに気づきました。
言葉にすることで理解につながり、魂が乗っかる。
今は、そう感じています。
勉強を始めてから、お客様との会話も変わりました。
美容の話が増えましたし、健康の話も増えました。
私は、感性や人柄だけでお客様を惹きつけられるタイプではないと思っています。
そういう美容師さんもいるでしょう。
でも、私は違う。
だから勉強する。
もちろん、知識で武装したからといって、それだけでお客様が増えるわけではありません。
それでも、勉強や知識は荷物にはなりませんから。
一日たった1mmでも前に進んでいれば、あるとき後ろを振り返って、
「あれ、結構来たなぁ」
と思えるんです。
逆に、今まで何をやっていたんだろうとも思います。
「これでいいだろう」と思いながら仕事をしていた自分。
今考えると、お客様にも失礼だったんじゃないかとすら感じます。
だから、今は勉強を続けています。
格好いい理由ではありません。
これからも美容師として食べていくためです。
もし美容師じゃなかったら
もし今、美容師以外の仕事をするとしたら。
畳職人なんか、いいなと思っています。
日本の文化を守る仕事がしたいんです。
歳を重ねるほど、日本の文化はすごいなと思うようになりました。
日本酒、醤油、発酵食品、出汁。
今のように科学で仕組みを説明できなかった時代から、あれだけ複雑な工程を積み重ねてきた。
一つのことに一生を捧げる、今でいうオタクのような職人たち。
そういう人たちが築いてきた技術や文化が廃れてしまうのは、もったいないと思うんです。
畳じゃなくてもいいんですけどね。
そういう仕事に、今は憧れがあります。
自分が美容師としてそこまでの職人になれているかと言われれば、まだまだです。
だからこそ「髪匠」と名乗り続ける以上、勉強していかなければいけないんでしょうね。
この先、どう生きたいか
これからの人生で何を望むかと聞かれたら、妻と二人、今までどおり普通に暮らしていけることです。
娘たちも、いずれ巣立っていきます。
いつか孫ができたら、何かしてあげたいこともあるでしょう。
別に大金持ちになりたいわけではありません。
ただ、そんな当たり前の生活を、お金の心配ばかりせずに続けていきたい。
そのためにも、まだまだ働かなきゃいけませんし、勉強もしなきゃいけません。
45歳。まだまだこれからです。
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